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土用 (どよう / Doyō)

季節の間に宿る静寂

土用は、立春、立夏、立秋、立冬の直前、それぞれ約18日間を指します。特に立秋前の土用(夏の土用)が最もよく知られ、うなぎを食べる「土用の丑の日」が有名です。

土用 (どよう / Doyō)

サブタイトル

季節の間に宿る静寂

サマリー

土用とは、立春・立夏・立秋・立冬の前十八日間を指し、季節の変わり目に宿る神秘的な時間である。陰陽五行思想に根ざしたこの期間は、大地の気が静まり、次なる季節への準備が始まる聖なる時。特に夏の土用は梅雨明けと重なり、蒸し暑さの中に秋への憧憬が漂う。鰻を食し、土いじりを慎み、心身を整える古来の知恵が、現代にも息づいている。

全面的紹介

起源

土用の概念は、中国古代の陰陽五行思想に由来する。木・火・土・金・水の五行のうち、「土」は季節の変わり目を司るとされ、各季節の終わりの十八日間が土用と定められた。この思想が奈良時代に日本へ伝来し、日本独自の季節感と融合して発達した。

暦との関係

現在の暦では、立春・立夏・立秋・立冬の直前十八日間が土用期間となる。特に夏の土用(立秋前の十八日間、7月20日頃〜8月7日頃)が最も知られており、この期間は梅雨明けと重なることが多い。土用の丑の日は、この期間中の丑の日を指し、年により一回または二回存在する。

歴史的背景

平安時代には既に土用の概念が宮廷行事に取り入れられ、この期間は土を動かす作業や旅行を避ける風習が生まれた。江戸時代になると、平賀源内の「土用の丑の日に鰻を食べる」という宣伝により、庶民にも広く普及した。明治以降も、日本人の季節感の根幹として受け継がれている。

地域ごとの習俗

関東では鰻の蒲焼き、関西では鰻の白焼きを好む傾向がある。また、各地で土用餅、土用しじみ、土用卵など、「土用」を冠した食べ物が親しまれている。沖縄では土用の期間を「どーよー」と呼び、独特の行事食が存在する。

食べ飲み遊びの儀式

飲食

夏の土用期間の代表的な食べ物は鰻である。「土用の丑の日」に鰻を食すことで、夏バテを防ぎ精力をつけるとされる。また、土用餅(あんころ餅)、土用しじみ、土用卵なども親しまれ、いずれも栄養価が高く夏の体力維持に適している。飲み物では、麦茶や冷やし甘酒が好まれる。

遊び

土用期間は土を動かすことを避ける「土用殺」の風習があるため、園芸や建築工事は控えられる。代わりに読書や音楽鑑賞、俳句や短歌の創作など、静的な文化活動が推奨される。また、風鈴の音色を楽しんだり、打ち水で涼を取ったりする風雅な遊びが好まれる。

儀式

神社では夏越の祓に続く清浄な期間として、心身の浄化を図る参拝が行われる。家庭では仏壇や神棚の掃除、衣替えの準備など、次の季節に向けた整理整頓が儀式的に行われる。茶道では土用の茶事として、季節の移ろいを静かに味わう茶会が開かれる。

コンテンツ

蝉の声が遠ざかり始める頃、暦は土用を迎える。立秋まで十八日。季節の狭間に宿る、この不思議な時間の感覚を、どう表現すればよいのだろうか。

朝の光はまだ夏の勢いを保ちながらも、どこか翳りを含んでいる。庭の朝顔は今朝も青い花を咲かせているが、葉の緑にわずかな疲れが見える。夏が、静かに自らの終わりを知っているのかもしれない。

土用の丑の日、鰻屋の前を通ると、白い煙が立ち上がっている。甘辛い匂いが鼻腔を満たし、幼い頃の記憶が蘇る。祖母が「土用には鰻を食べるものよ」と言いながら、小さな手にお箸を握らせてくれたこと。あの時の鰻重の味は、夏の終わりの郷愁と共に舌に残っている。

風鈴の音が、午後の静寂を縫って響く。 チリン、チリンと、規則的でありながら不規則な音律。それは時の流れそのもののようで、聞いているうちに心の奥底にある何かが緩やかに解けていく。土用の期間は、土を動かしてはいけないという。大地も休息を必要としているのだろう。

夕刻、打ち水をする。水が熱いアスファルトに触れる瞬間の、あの独特な匂い。蒸気と共に立ち上る熱気の中に、秋への憧れが混じっている。遠い空の雲は、もう夏の雲ではない。高く、薄く、どこか寂しげな形をしている。

茶室では、土用の茶事が静かに進行する。亭主の所作一つ一つに、季節への敬意が込められている。茶碗に注がれた薄茶の緑は、まさに季節の移ろいを映しているようだ。「もうじき秋ですね」という客の言葉に、亭主は微笑みで応える。言葉にならない了解が、その場を満たしている。

夜、虫の音が変わり始めたことに気づく。蝉の声は日ごとに弱くなり、代わりに秋虫の澄んだ音色が混じり始めている。縁側に座り、その音の変化に耳を傾けていると、時間というものの不思議さに思いを馳せる。

土用とは、季節と季節の間に設けられた、神秘的な猶予期間なのかもしれない。夏が完全に去る前の、最後の抱擁のような時間。そこには焦燥も諦観もなく、ただ静かな受容がある。

仏壇の前で手を合わせる時、先祖たちもこの同じ土用の時間を過ごしたのだと思う。同じように鰻を食し、同じように風鈴の音に耳を傾け、同じように季節の移ろいに心を寄せたのだろう。時は流れても、この感覚だけは変わることなく受け継がれている。

目を閉じれば、見えるだろうか? 季節の狭間に宿る、あの透明な時間の流れが。